加藤登紀子さんといえば、「百万本のバラ」や「紅の豚」、「難破船」の作詞・作曲者などとして著名なアーティストですが、環境運動家としても知られています。

その夫・藤本敏夫さんに大物文化人の恋人と浮気の噂が。また、子供(娘)のことも話題です。

その加藤登紀子さんについて、年齢や血液型、経歴などwikiプロフィールと共に調べてみました。

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加藤登紀子さんのプロフィール

名前:加藤登紀子(かとう ときこ)
本名:藤本登紀子(ふじもと ときこ)
出身地:満州国・ハルビン市
生年月日:1943年12月27日
年齢:75歳(執筆時)
血液型:O型
学歴:東京大学文学部西洋史学科卒業
職業:シンガーソングライター、女優
所属事務所:トキコ・プランニング

加藤登紀子さんの若い頃~今現在

加藤登紀子さんは1943年の戦時中に満州のハルビンに生まれます。父親は南満州鉄道株式会社の社員でした。

戦後間もなく母親の実家のある京都に引き揚げ、中学1年生のときに父親の仕事の関係で東京に移住。

当初は京都と東京の学力差についていけず悩んでいたそうですが、一生懸命勉強して遅れを取り戻し、高校受験では都立駒場高等学校にトップ合格するまでになります。

ちなみに、あの吉永小百合さんは加藤登紀子さんの高校の1年後輩なのだそうです。同じアナウンス部に所属していたのだとか。

吉永小百合さんについて

高校2年生だった1960年、安保闘争デモで当時東京大学の学生だった樺美智子さんが亡くなった事件がきっかけで、彼女の遺志を継ぐためにも東大に進学しようと決意したといいます。

加藤登紀子さんは運動家としての側面もよく知られていますが、この頃から学生運動に関わるようになったみたいですね。

学生運動に放送部の部活に文化祭にと、課外活動で多忙な中、受験勉強に勤しみ、見事東京大学に現役合格。

教師に「絶対無理」と言われ、父親にも「女が東大に行くもんじゃない」と反対されたことで、一念発起したといいます。

1965年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、翌66年に『誰も誰も知らない』でデビューを果たします。

さらに、セカンドシングル『赤い風船』(小林亜星作曲)で日本レコード大賞新人賞を受賞。

その卓越した歌唱力はデビューから早々に高く評価されており、69年に『ひとり寝の子守唄』で、71年に『知床旅情』で、相次いで日本レコード大賞歌唱賞を受賞しています。

72年に学生運動指導者の藤本敏夫さん(後述)と結婚し、長女を出産。歌手活動を一時休止。

73年に産休を経て復帰し、75年に次女のYaeさんを、80年に三女を出産します。

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以後も歌手として、作詞・作曲家として、女優として、そして運動家として多彩な活動を展開。

歌手としては87年に『百万本のバラ』が大ヒットを記録。また同年に中森明菜さんに提供した『難破船』(詞・曲とも)、石原裕次郎さんに提供した『わが人生に悔いなし』(曲のみ)もヒットします。

女優としても、83年の映画『居酒屋兆治』の高倉健の妻役や86年のドラマ『深夜にようこそ』の千葉真一の妻役などがよく知られています。

(『居酒屋兆治』より)

また、声優として、とりわけよく知られているのが、92年のスタジオジブリの宮崎駿監督作品『紅の豚』のジーナ役で、主題歌『さくらんぼの実る頃』、エンディングテーマ『時には昔の話を』の歌唱も担当。

運動家としては、環境や平和に強い関心を持ち、81年に夫の藤本敏夫さんとともに千葉県に鴨川自然王国を設立し、有機無農薬栽培の実践・啓蒙に尽力するほか、

97年には世界自然保護基金の日本委員会評議員に就任

00年には国連環境計画親善大使に任命

08年に九条世界会議に参加

09年に佐渡トキ環境親善大使に任命

など、数々の運動に参加。現在に至るまで、歌手として、作詞・作曲家として、女優として、運動家として第一線で活躍を続けています。

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