リオパラリンピックでメダルが期待される、車いす卓球の別所キミヱ(べっしょきみえ)さん。
ハートネットTVなど、様々なメディアで取り上げられていますが、病気のこと、車いす生活から卓球を始めた経歴、旦那さんや子供など家族のことなどに興味があったので調べてみました。
別所キミヱさんのプロフィール
名前:別所キミヱ(べっしょ・きみえ)
出身地:広島県
生年月日:1949年
学歴:広島県立加計高校卒業
兵庫県立障害者高等技術専門学院宝飾工芸科修了
職歴:敷島製パン(結婚前)、日本郵便(現在)
別所キミヱさんの病気について
別所キミヱさんは、もともと健常者でしたが、1989年42歳のときに、「仙骨巨細胞腫」という病気にかかります。
仙骨は骨盤の一部で、背骨を直に支える部分の骨で、この部分に巨大な骨腫瘍ができる病気です。
通常は良性腫瘍ですが、再発や肺など転移をすることがあります。
別所キミヱさんは、1989年に、足腰が痺れ、痛みを感じ始めたそうです。
いくつもの病院を渡り歩いたものの、診断がつかず、半年後にようやく「仙骨巨細胞腫」であると判明しました。
1990年に手術をしますが、再発。
1991年に2度目の手術を行い、その結果車いす生活を送ることになりました。
以後、再発等は見られないようですが、肺転移がないかを確認するために、毎年1度の通院・経過観察が続けられています。
別所キミヱさんと卓球
別所キミヱさんは、1949年に広島県に生まれ、結婚後は兵庫県明石市に住んでいました。
2人の男児にも恵まれ、何不自由なく暮らしていましたが、40歳のときに夫を病気で亡くします。
当時、息子さんたちは高校2年生と3年生でした。
さらにその2年後、42歳のときに仙骨巨細胞腫を発症し、2度の外科手術の末、両足の自由を失い、車いす生活を送るようになりました。
身体が不自由になりましたが、別所キミヱさんは、生活のために復帰後パートとして働き始めます。
失意のどん底にありましたが、友人の励ましを受けながら、徐々に元気を取り戻し、外に出かけることができるようになります。
そんな中、新聞で障害者卓球の記事を目にしたことから、転機が訪れます。
別所キミヱさんは、もともと学生時代からスポーツ好きで、結婚後もバレーボールやソフトボールなどを続けていたのです。
どんどん卓球にのめり込む別所キミヱさん。
その一方で、手に職を付けて生活を安定させるため、兵庫県立障害者高等技術専門学院に入学し、卒業後、就職します。
最初はリハビリにいいかな、くらいの気持ちで始めた障害者卓球ですが、始めてわずか6年後にいきなり全日本で優勝するという快挙をなしとげます。
翌年、日本代表としてアジア大会に出場するも、完敗。
持ち前の負けず嫌いと根性を発揮し、努力を積み重ねます。
そして、ついに、2002年のUSオープンで優勝します。
以後もアテネ・北京・ロンドンのパラリンピックに連続出場し、北京とロンドンでは5位に入賞します。
現在は車いす卓球世界ランキング7位につけており、世界的な車いす卓球プレーヤーの一人として知られています。
別所キミヱさんの著書
別所キミヱさんは、自叙伝を出版なさっています。
たちあがるチカラ (Nanaブックス)
母親の苦労や努力を間近で見てきたからでしょうか、2人の息子さんも今では立派に成人して、孫にも恵まれ、別所キミヱさんは彼らからとても慕われ、敬愛されているようです。
Amazonレビューからの孫引きになりますが、孫から別所キミヱさんにあてた手紙がとても素敵でしたのでシェアしたいと思います。
べっしょのおばあちゃんへ。
マフラーをあんだよ。
おばあちゃんすき。
くるまいすにのっているから。
がんばっているから。
別所キミヱさんは、ロンドンオリンピックでメダルを逃したときに、「私には人生の金メダルがある」と述べたそうです。
逆境にも絶望せず、前向きに努力を積み重ね、卓球選手として成功するだけでなく、母親としても立派に子供たちを育て上げ、現在の別所キミヱさんがあります。
その道のりを思うと、この言葉には心から同意せずにはいられません。
2016年のリオパラリンピックではぜひメダルを、と思いますが、それと同時に、別所キミヱさんご本人もおっしゃっているように、「楽しみながらするのが一番」なので、パラリンピックでは気負わずに、存分に楽しんでプレイして欲しいと思います。
以上、別所キミヱさんについてでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
[ad#co-3]