往年の名作ドラマGメン75や鳩子の海で知られる藤田三保子(当時は美保子)さん。
NHKハートネットTVで、鳩子の海の舞台となった山口県上関町に登場します。
その藤田三保子さんの病気(膠原病)のこと、夫や結婚のこと、娘のことなどについて調べてみました。
藤田三保子さんのプロフィール
名前:藤田三保子(ふじた・みほこ)
出身地:山口県宇部市
生年月日:1952年10月31日
学歴:山口県立防府高等学校卒業
藤田三保子さんは山口県宇部市生まれ。
高校卒業後、俳優を目指して上京し、1973年に文学座研究所へ入所。
入所直後の1974年、山口県上関町を舞台とするNHK朝ドラ「鳩子の海」のヒロインに抜擢されます。
それまでは浅田京子名義でしたが、これを期に名義を変え、「藤田美保子」を名乗ります。
さらに1975年刑事ドラマ「Gメン’75」に響圭子刑事役として2年間レギュラー出演ののち、24歳でNHKのディレクターだった男性と結婚。
「Gメン’75」は当時、平均視聴率30%超えを記録した大人気ドラマでした。
丹波哲郎さんをはじめとする、錚々たる男性レギュラー俳優陣に交じり、紅一点のレギュラー女刑事役として大抜擢されたのでした。
とんとん拍子でスターダムに踊り出て、順風満帆に見えた藤田三保子(当時は美保子)さんでしたが、突如として病魔が襲います。
膠原病という原因不明の病に侵された藤田美保子さんは、女優としての活動に大きな制限が加わることを余儀なくされました。
1989年、名義を藤田美保子から藤田三保子に変更します。
女優として多忙だった生活が一転した藤田三保子さんは、着物の着付けや日舞やタップダンスなど、別の表現手段を模索。
1996年からは油絵画家として活動、多くの個展を開催し、1999年からは俳句結社「炎環」を立ち上げ、山頭女を号し、さらに2004年にシャンソン歌手としてデビューするなど、持ち前のセンスと努力で多才ぶりを発揮。
また、現在に至るまでテレビや舞台でも女優として活躍を続けています。
藤田三保子さんの病気
藤田三保子さんは27歳のとき、定期健診を受けたところ、即入院を告げられました。
病名は膠原病でした。
膠原病というのは、全身が炎症を起こしたり、多臓器に障害が生じたりする、原因不明の病気の総称です。
代表的な病気としては、全身性エリテマトーデスや関節リウマチや強皮症などがあります。
退院後の藤田三保子さんは、仕事も激しい運動も禁止。直射日光を浴びることも、妊娠することさえも禁じられてしまいました。
藤田三保子さんの子供
藤田三保子さんは、24歳の若さでNHKのディレクターだった男性と結婚しましたが、男性は再婚で、2人の子連れでした。
藤田三保子さん自身の子供は、病気のため諦めかけていたそうですが、33歳のときに妊娠が判明。
膠原病患者の障害児出産率は通常の25倍と言われ、迷いましたが、藤田三保子さんは出産を決意。
その時の担当の女医も強皮症という膠原病の一種を患いながら出産経験があり、その女医から「悩むなら産んでから悩みなさい」と言われ、吹っ切れたそうです。
そして、1987年1月21日、34歳のときに無事元気な女の子を出産します。
娘さんは外園ゆう(ほかぞの・ゆう)さんと言います。
外園ゆうさんは聖徳学園高校、デジタルハリウッド大学を卒業後、母と同じ文学座の研究所に入所し、現在は舞台女優として、文学座の公演を中心に活躍しています。
母親と共演することも多く、母娘仲は良好のようです。
実は、藤田三保子さんが大病にもかかわらず、現在のように精力的に前向きに活動できるのは、娘さんを産んだことが大きな契機だったそうです。
出産当時、女優は完全に諦めていた藤田三保子さんでしたが、娘が大きくなったときに、過去の栄光をひけらかすだけの母親にはなりたくない、と感じたのだそうです。
ずっと第一線で表現者として活躍したい。そして、娘が成人してからも、「お母さん、素敵な人生ね」と言われる母親になりたい。
そう思った藤田三保子さんは一念発起。
それから、着付けや日舞や三味線やタップダンスなど、さまざまな自己表現の手段を模索し、たどり着いたのが今の油絵やシャンソンや俳句といった分野でした。
そして油絵の個展を毎年開いたり、シャンソンライブを毎月行うなど、現在も精力的に活動しています。
膠原病のような大病を患い、「もう女優生命は絶たれてしまった」と一度は絶望しながらも、新たに打ち込める道を見つけ(それもたくさん)、還暦を過ぎても多方面で活躍する藤田三保子さん。
今後もお身体に気をつけて、素敵な絵画や歌を表現し続けて欲しいですよね。
以上、藤田三保子さんについてでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。