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]]>障害者世界陸上の400メートル金メダリストの佐藤友祈さんの、病気や障がいについて、また競技や所属会社について興味があったので調べてみました。
名前:佐藤友祈(さとう・ともき)
出身地:静岡県藤枝市
生年月日:1989年9月8日
佐藤友祈さんの所属する会社は、グロップサンセリテといいます。
岡山に本社を置く人材派遣会社・株式会社グロップの子会社で、「障害者雇用推進の特例子会社」として設立。
主に障がいを持った人たちを雇用し、テレマーケティング、データ入力、荷物の梱包や印刷、清掃や農作業、鍼灸マッサージなど、幅広いサービスを提供しています。
5年以上働いている人が半数以上、10年以上働いている人が4分の1を超えるなど、長期間働き続けている人が多いようで、職場環境は良好のようですね。
余談ですが、親会社のグロップのホームページに行くと、あのDAIGOさんの姿があって、イメージキャラクターをなさっているようですね。
http://www.grop.co.jp/
佐藤友祈さんは1989年静岡県藤枝市生まれ。
何不自由なく暮らしていましたが、21歳のとき、悲劇が襲います。
脊髄炎にかかってしまったのです。
脊髄炎とは、文字通り脊髄が炎症を起こす病気で、ウイルスや細菌によるもの、膠原病によるもの、多発性硬化症など自己免疫性のもの、はたまた特発性(原因不明)のものなど、さまざまな要因があります。
しかし、いずれにせよ、脊髄には多くの神経が集中しているため、ほんのわずかな炎症でも、重大な後遺症を残してしまう可能性が非常に高い、恐ろしい病気です。
佐藤友祈さんは、この脊髄炎がもとで両足が動かなくなり、左手にも麻痺が残ってしまったのです。
人生を悲観して、1年もの間、家に引きこもっていた佐藤友祈さんでしたが、テレビでロンドン・パラリンピックの車いす選手たちの勇姿に感化されたことが転機となりました。
しかし、長いこと引きこもっていたそうで、かなり体重が増えてしまっていた佐藤友祈さんん。
はじめは体重を落とすことから始める、というくらい、アスリートには程遠い状態からのスタートでした。
しかし、持ち前の集中力と粘り強さ、そしてコーチの松永仁志さんの徹底したコーチングにより、めきめきと実力をつけ、頭角を現します。
佐藤友祈さんは、障害の程度に応じてT51~T54にクラス分けされる車いす競技で、2番目に重い障害のクラスであるT52の選手として登録されています。
そして2015年10月、ドーハで行われた障害者陸上世界選手権で、男子400メートル(車いすT52)で金メダルを獲得し、リオパラリンピックへの切符を手にします。
競技をはじめてから、わずか4年という超短期間での快挙です。
同選手権では、他に1500メートルでも銅メダルを獲得しています。
レドモンド・マーティン選手が強敵とのことですが、もちまえの集中力と忍耐力で、リオパラリンピックでは肉薄して欲しいものですよね。
以上、佐藤友祈さんについてでした!
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]]>The post 別所キミヱ(キミエ)さんの病気、夫子供など家族、経歴などwiki。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>ハートネットTVなど、様々なメディアで取り上げられていますが、病気のこと、車いす生活から卓球を始めた経歴、旦那さんや子供など家族のことなどに興味があったので調べてみました。

名前:別所キミヱ(べっしょ・きみえ)
出身地:広島県
生年月日:1949年
学歴:広島県立加計高校卒業
兵庫県立障害者高等技術専門学院宝飾工芸科修了
職歴:敷島製パン(結婚前)、日本郵便(現在)
別所キミヱさんは、もともと健常者でしたが、1989年42歳のときに、「仙骨巨細胞腫」という病気にかかります。
仙骨は骨盤の一部で、背骨を直に支える部分の骨で、この部分に巨大な骨腫瘍ができる病気です。

通常は良性腫瘍ですが、再発や肺など転移をすることがあります。
別所キミヱさんは、1989年に、足腰が痺れ、痛みを感じ始めたそうです。
いくつもの病院を渡り歩いたものの、診断がつかず、半年後にようやく「仙骨巨細胞腫」であると判明しました。
1990年に手術をしますが、再発。
1991年に2度目の手術を行い、その結果車いす生活を送ることになりました。
以後、再発等は見られないようですが、肺転移がないかを確認するために、毎年1度の通院・経過観察が続けられています。
別所キミヱさんは、1949年に広島県に生まれ、結婚後は兵庫県明石市に住んでいました。
2人の男児にも恵まれ、何不自由なく暮らしていましたが、40歳のときに夫を病気で亡くします。
当時、息子さんたちは高校2年生と3年生でした。
さらにその2年後、42歳のときに仙骨巨細胞腫を発症し、2度の外科手術の末、両足の自由を失い、車いす生活を送るようになりました。
身体が不自由になりましたが、別所キミヱさんは、生活のために復帰後パートとして働き始めます。
失意のどん底にありましたが、友人の励ましを受けながら、徐々に元気を取り戻し、外に出かけることができるようになります。
そんな中、新聞で障害者卓球の記事を目にしたことから、転機が訪れます。
別所キミヱさんは、もともと学生時代からスポーツ好きで、結婚後もバレーボールやソフトボールなどを続けていたのです。
どんどん卓球にのめり込む別所キミヱさん。
その一方で、手に職を付けて生活を安定させるため、兵庫県立障害者高等技術専門学院に入学し、卒業後、就職します。
最初はリハビリにいいかな、くらいの気持ちで始めた障害者卓球ですが、始めてわずか6年後にいきなり全日本で優勝するという快挙をなしとげます。
翌年、日本代表としてアジア大会に出場するも、完敗。
持ち前の負けず嫌いと根性を発揮し、努力を積み重ねます。
そして、ついに、2002年のUSオープンで優勝します。
以後もアテネ・北京・ロンドンのパラリンピックに連続出場し、北京とロンドンでは5位に入賞します。
現在は車いす卓球世界ランキング7位につけており、世界的な車いす卓球プレーヤーの一人として知られています。
別所キミヱさんは、自叙伝を出版なさっています。
母親の苦労や努力を間近で見てきたからでしょうか、2人の息子さんも今では立派に成人して、孫にも恵まれ、別所キミヱさんは彼らからとても慕われ、敬愛されているようです。
Amazonレビューからの孫引きになりますが、孫から別所キミヱさんにあてた手紙がとても素敵でしたのでシェアしたいと思います。
べっしょのおばあちゃんへ。
マフラーをあんだよ。
おばあちゃんすき。
くるまいすにのっているから。
がんばっているから。
別所キミヱさんは、ロンドンオリンピックでメダルを逃したときに、「私には人生の金メダルがある」と述べたそうです。
逆境にも絶望せず、前向きに努力を積み重ね、卓球選手として成功するだけでなく、母親としても立派に子供たちを育て上げ、現在の別所キミヱさんがあります。
その道のりを思うと、この言葉には心から同意せずにはいられません。
2016年のリオパラリンピックではぜひメダルを、と思いますが、それと同時に、別所キミヱさんご本人もおっしゃっているように、「楽しみながらするのが一番」なので、パラリンピックでは気負わずに、存分に楽しんでプレイして欲しいと思います。
以上、別所キミヱさんについてでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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]]>The post 木村敬一パラリンピック全盲水泳選手(東京ガス)の病気経歴プロフィール。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>前回のロンドンでも2つのメダルを獲得するなど、活躍目覚ましく、リオパラリンピックでもメダルが期待されています。
そんな木村敬一選手の病気や経歴、家族などwikiプロフィールに興味があったので調べてみることにしました。

名前:木村敬一(きむら・けいいち)
出身地:滋賀県栗東市
生年月日:1990年9月11日
学歴:筑波大学附属視覚特別支援学校、日本大学文理学部卒業後、日本大学大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了
所属:東京ガス
木村敬一さんは、先天的な目の疾患により、2歳で全盲になりますが、小学4年生のとき、母親の勧めで水泳を始めます。
小学校卒業後は、筑波大学附属視覚特別支援学校に進学し、水泳部に入部。
パラリンピックメダリストの河合純一、酒井喜和、秋山里奈選手を育てた名コーチ・寺西真人さんのもとで実力を伸ばし、17歳の若さで北京パラリンピックへの切符を手にします。
そして、みごと100メートル平泳ぎで5位、100メートルバタフライで6位に入賞します。
その後日本大学に進学し、在学中の2012年のロンドンで、ついに銀メダル(100メートル平泳ぎ)と銅メダル(100メートルバタフライ)の2つのメダルを獲得します。
その後、2013年に日本大学を卒業し、同大大学院に進学と同時に東京ガスに入社。
2015年7月の世界選手権で2つの金メダルと1つの銀、銅メダルを獲得し、リオパラリンピックへの切符を手にします。
木村敬一さんの病名は、増殖性硝子体網膜症といいます。
簡単に言うと、網膜と硝子体の間に線維性の細胞が増殖してしまう病気です。
網膜剥離や網膜剥離手術後の傷を放置しておくと、それを塞ぐためにそのような細胞が増殖する、というのが、通常は発症の原因になるそうです。
木村敬一さんは2歳で発症したとのことですが、これらのことが原因とは考えにくい気もしますが、どうなのでしょうね?
医師からは治る見込みはないと言われたものの、諦めきれなかったご両親は、木村敬一さんに3回にわたって手術を受けさせます。
しかし、結局木村敬一さんの視力が回復することはなかったそうです。
パラリンピックでは、様々な障害を持った選手が出場するので、その障害の種類や程度によるハンデの差をできるだけなくすために、「クラス」という仕組みがあります。
全ての選手がクラスで区分され、それぞれの区分の中で競争するわけです。
木村敬一さんは、S11およびSB11クラスに属しています。
Sというのは自由形・背泳ぎ・バタフライの3つの泳法を表しています。
他にSB(背泳ぎ)、SM(メドレー)の区分があります。
数字は障害の部位や程度に応じて振り分けられ、1~10が肢体障害(1が最も重度)、11~13が視覚障害(11が最も重度)、14が知的障害、15が聴覚障害です。
木村敬一さんは全盲ですので、視覚障害では最も重度の11クラスになっているのですね。
ですので、木村敬一さんの順位というのは、このS11クラスの選手たちの中で決まるということになります。
視覚障害者の競泳の場合、壁が近づいたことを泳者に知らせる「タッパー」という存在がいます。

これは、プールサイドで棒を持った人が、その棒で壁に近づいた泳者の頭や背中に「タッピング」(軽く触れる)して知らせる役割です。
子供の頃にコーチだった寺西真人さんが、現在も木村敬一選手のタッパーをなさっているそうです。
気心が知れていて、信頼できる「眼」でしょうから、木村敬一さんも安心でしょうね。
YouTubeに木村敬一さんの100メートル平泳ぎの動画がアップされていましたので、共有したいと思います。
0:50あたりの赤い服のタッパーが寺西真人さんと思われます。
このお二人のタッグで、次のリオではぜひ金メダルを獲得してほしいですよね。
以上、木村敬一さんについてでした。
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