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]]>透明感溢れる歌声が魅力的は歌手・アン・サリーさん。病院に勤める内科医としての顔も持っています。アン・サリーさんの経歴や大学,結婚,夫,旦那,子供について,紅白出場や朝ドラ「おかえりモネ」劇中歌、自宅は飯能という噂についてなど、気になったので調べてみました。
名前:アン・サリー(Ann Sally)
本名:安 佐里(旧姓)
出身地:愛知県名古屋市
生年月日:1972年8月17日
年齢:48歳(執筆時)
職業:医師、シンガーソングライター
アン・サリーさんは、1972年8月17日、愛知県名古屋市に、4人兄妹の一番上として生まれます。
父親も医師で、アン・サリーさんは在日コリアン3世とのことです。
幼少時からピアノを習い、音楽に親しみます。
大学時代よりバンドで本格的に歌い始め、卒業後も内科医師として働きながらライヴを重ねます。
2001年、29歳のとき、「Voyage」 でアルバムデビュー。
2002年から3年間、ニューオリンズに医学研究のため暮らしながら、音楽活動を並行して続けます。
2003年、「蘇州夜曲」など古典的な歌謡曲や、細野晴臣、吉田美奈子等、邦楽カヴァーにも挑戦し、幅広い音楽層の楽曲を収録したアルバム「day dream」「moon dance」を発表。
帰国後は医師としての勤務の傍ら日本全国でライヴ活動を行い、2児の母となった2007年には「こころうた」を発表。
2008年11月に、書き下ろしオリジナル曲「時間旅行」(ニンテンドー3DS「レイトン教授と最後の時間旅行」テーマソング)を発表。
時代やジャンルの枠を超えた、柔らかくも情感あふれる歌唱と、そのナチュラルなライフスタイルは幅広く支持されています。
アン・サリーさんは、2009年、第60回NHK紅白歌合戦に出場しています。
紅白出場歌手の全員がリレーでうたった紅白応援歌「歌の力」の最初の導入部を担当しました。
「歌の力」は、久石譲さんが作曲・編曲を担当しています。
アン・サリーさんは、大学進学時には、音楽か医学の道に進むか迷ったのだそうです。
父親の「どちらもやっていけばいい。医者は医学部に行かないとなれないから、とりあえず選択肢は増やしておいたほうがいい」というアドバイスで、医学部に進学することを決めたのだそうです。
そして高校卒業後、18歳のとき、名古屋市から上京。医学部で学びます。
アン・サリーさんの出身大学を調べたところ、東京女子医科大学だということがわかりました。
東京女子医科大学のホームページに、アン・サリーさんが卒業生として、2015年3月に紹介されていました。
アン・サリーさんは、父親の親しい医師のお子さんが同大学へ通っていると聞いて、東京女子医科大学を目指すことにしたのだそうです。
大学では、ワンダーフォーゲル部に所属し、よく歌いながら山登りをしたそうです。
卒業後、研修医として女子医大付属第二病院(現在・東医療センター)に勤務。
3年目に循環器内科の医師を目指して都内の他の病院へ移ります。
歌は、大学ではブルースやソウルを演奏するサークルに入り、ライブハウスなどで歌っていました。
医師になってからは、家でCDをかけて歌ったり、病院の部屋の端でこっそり歌っていたこともあったそうです。
たまたま歌っていたライブハウスに来ていたプロデューサーが、アン・サリーさんの唄に耳をとめ、2001年、29歳のとき、アルバム「voyage」でデビューとなります。
次ページ:アン・サリーさんの結婚・夫・子供について&自宅は飯能という噂や、朝ドラ『おかえりモネ』劇中歌についても!
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]]>The post 日野原重明死去のニュースは本当?いつ?現在まで、影響の大きさを振り返る。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が死去されたというニュースが入りました。
日野原重明先生が、私たちの生活や人生というものに対する考え方に与えた影響は測り知れないものがあります。
日野原重明先生の簡単なプロフィールと、その影響、個人的な思いについて書きたいと思います。
名前:日野原重明(ひのはら しげあき)
出身地:山口県
生年月日:1911年10月4日
没年月日:2017年7月18日(満105歳没)
学歴:京都帝国大学医学部卒業
学位:医学博士(京都大学)
職業:聖路加国際病院名誉院長
日野原重明先生は1911年、山口県に6人きょうだいの次男として生まれました。
両親がキリスト教徒で、日野原重明先生も7歳で洗礼を受けています。
父親が牧師で、大分や神戸のメソジスト教会牧師、そして広島女学院長を歴任するのに伴って、転居を繰り返す少年時代でした。
1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し、結核による休学を経て卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任します。
1941年に聖路加病院の内科医となり、1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官します。
以後、
聖路加看護大学学長
聖路加国際病院院長
国際基督教大学教授
自治医科大学客員教授
ハーヴァード大学客員教授
国際内科学会会長
一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長
等、数々の要職を歴任。
勲二等瑞宝章、文化功労者、文化勲章をはじめ、受賞(章)多数。
日本で最初に人間ドックを開設し、早くから予防医学の重要性を主張しつづけ、また終末期医療の普及にも多大な貢献があり、「成人病」を「生活習慣病」という名称に改めたことでも知られています。
「生涯現役」として、子供たちを対象に87年から続けてきた「いのちの授業」や、90歳で出版した『生き方上手』などの多数の著書や講演により、一般にもよく知られた存在でした。
100歳を超えてもなお、2、3年先のスケジュールがいっぱいで、移動時間にも執筆を続け、平均睡眠時間も4時間半と、超多忙な生活を送り続けていたといいます。
90歳を過ぎても徹夜することがザラにあったといいますが、96歳で徹夜を辞め、睡眠時間を5時間に増やしたのだそうです。
少なくとも110歳まで現役でいたいと語っていましたが、2017年7月18日午前6時半に、呼吸不全のために105歳で亡くなりました。
今では、「生活習慣」というものが、健康や病気の予防に決定的に重要な役割を果たすということは、なかば常識になっています。
そして、その認識の一般への普及に最も貢献が大きかったのが、日野原重明さんだと言えます。
日野原重明さんは、早くから予防医学の重要性に気づき、70年代から成人病を生活習慣病と改めるように提唱してきました。
そして、現在ではこの「生活習慣病」という名称は広く受け入れられています。
単なる名前の違いでは済まない、大きな違いがあります。
成人病と言うと、「大人だけが関係あり、子供は関係ない」とか、「大人になったら宿命的にかかってしまう病気」みたいなイメージを与えかねません。
確かにこの名称では、予防のために普段の生活を改めるという認識には至りにくいでしょうね。
名称が変わるだけでも、
「誰でも生活習慣次第ではかかってしまう恐ろしい病気」
「その一方で、生活習慣さえ気をつけていれば、高い確率で予防できる病気」
という認識を植え付けることができ、実際に世の中はそのような方向へ向かっています。
その先鞭をつけたのが、日野原重明先生と言っても過言ではありません。
そして、そのことを身をもって示したのも日野原重明先生でした。
朝はオリーブオイルを入れたジュース、昼は牛乳、胚芽クッキーやリンゴ、バナナなどのフルーツ、夕方はビタミン豊富な野菜、肉や魚などのタンパク質をしっかり摂る、といった食生活はよく知られています。
その食生活と、よく運動すること、そして「生涯現役」でいること、これら3つがそろえば、健康長寿が実現できることを、日野原重明先生は身をもって示したのでした。
ロールモデルとしての、その影響の大きさは測り知れないものがあったと思います。
日野原重明先生ご自身は、天国で「110歳までやれなくて残念だ」なんて思っておられるのかもしれません。
しかし、言うまでもありませんが、105歳でも十分過ぎる程です。
90歳を過ぎても現役のパイロットという元戦闘機乗りの高橋淳さんなどもそうですが、こういった超高齢でも、現役世代以上に現役として活躍を続けている人たちを見ると、脱帽するほかありません。
ちなみに高橋淳さんによると、60代はまだまだひよっこなのだそうです。きっと日野原重明先生も同じ意見でしょうね。
いくつになってもまだまだやれる、そういう希望をもたらしてくれた存在としても、こういった方たちの存在はかけがえのないものと言えます。
日野原重明先生は亡くなられましたが、その影響力は永久に続くのだと思います。
日野原重明先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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]]>The post 早川一光(京都のわらじ医者)さんの経歴、がんの病気、子供について。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>がんを患い、「こんなはずじゃなかった」とのことですが、講演会やビデオ、CD、DVDの他、現在もKBS京都ラジオ「ばんざい人間」で元気な声を多くのリスナーに届けています。
その早川一光さんの経歴や妻や子供など、wikiプロフィールについて興味があったので調べてみました。
名前:早川一光(はやかわ・かずてる)
出身地:満州国・奉天(現・中国遼寧省瀋陽市)
生年月日:1924年1月3日
学歴:京都府立医科大学卒業
早川一光さんは1923年12月26日に旧満州国・奉天に生まれます。父親は満鉄病院に勤める小児科医でした。
早川一光さんの両親が、生まれてわずか数日で息子の数え年が2歳になるのを嫌って、翌1924年1月3日に出生届を提出したため、この日が戸籍上の誕生日になっています。
早川一光さんが4歳のときに家族は愛知県知多郡横須賀町(現東海市)に戻り、そこで幼少期を過ごすことになります。
そして、父親と同じ医者を目指して京都府立医科大学に入学し、在学中から学生自治会の設立に関わり、学生運動に参加するなど、学内の民主化運動に積極的に関わっていました。
そして1948年に卒業し、卒業後は望月成人教授の第1外科に入局します。
順風満帆にエリートコースを歩んでいるかに見えましたが、早川一光さんの左翼・民主化運動が問題視されて、1949年に京都府立医科大学から辞職に追いやられます。
後には、堀川病院の院長となる竹澤徳敬教授なども対象者のリストに名を連ねていました。
その後、1950年に住民たちの出資により京都市上京区西陣に白峰診療所を開設します。
1955年に幸恵さんと結婚、1957年には第一子の長女を、1959年には次女をもうけます。
白峰診療所は1958年に堀川病院に発展し、早川一光さんは副院長に就任。以後、院長・理事長を歴任し、1984年に理事長を退任後も1999年まで顧問を務めます。
その後も、住民のための地域医療に専念し、在宅医療の普及に尽力します。
1997年から2003年にかけて京都府美山町の美山診療所で農村における地域医療に携わり、同診療所の公設民営化への働きかけを経て、所長に就任します。
早川一光さんは、これらの地道な活動から「わらじ医者」と呼ばれるようになりました。
1999年に堀川病院顧問を辞任した後も、2002年に京都衣笠に「わらじ医者 よろず診療所」を開設し、医療相談を行います。
これら地域医療に医師として携わるかたわら、「わらじ医者 京日記 ボケを看つめて」を著し、毎日出版文化賞を受賞し、NHKでドラマ化(「とおりゃんせ」)されたり、1995年から2013年にかけて滋賀県立医科大学で医学概論を講義したりなど、人間を医学・宗教など様々な角度から見つめる「総合人間学」を提唱し、普及する活動も盛んに続けています。
著書多数、また1987年から現在まで続く長寿番組、KBS京都ラジオ「早川一光のばんざい人間」のパーソナリティとしても知られています。
早川一光さんの病気と子供については次のページで!
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]]>The post 須磨久善と弟子の天野篤(天皇陛下担当医)の関係。妻や家族は? first appeared on My Favorite Topics.
]]>心臓血管研究所のスーパーバイザーとして知られる他、SWITCHインタビューやプロジェクトXなどに登場しましたが、水谷豊さんが外科医役に扮したドラマスペシャルや、医龍の監修などでも有名ですよね。
その須磨久善さんの弟子が天皇陛下の手術を担当した天野篤さんとのことですが、その関係や、妻など家族について興味があったので調べてみました。
名前:須磨久善(すま・ひさよし)
出身地:兵庫県神戸市
生年月日:1950年3月1日
学歴:甲南中学校・高等学校、大阪医科大学卒業
須磨久善さんは、1950年神戸市生まれ。
高校卒業後は大阪医科大学に進学、在学中に医学雑誌で心臓バイパス手術の様子を見たことがきっかけで心臓外科医を目指すようになります。
卒業後は東京の虎の門病院の外科レジデントに就職。
順天堂大学胸部外科、大阪医科大学胸部外科を経て、1989年、三井記念病院の循環器外科科長に就任。
以後、湘南鎌倉総合病院や葉山ハートセンターの院長を経て、2005年に財団法人心臓血管研究所のスーパーバイザーに就任し、退任後の2012年、代官山に須磨ハートクリニックを開院し、現在に至ります。
須磨久善さんは、世界初の胃大網動脈をグラフト(移植組織)に使ったバイパス手術を成功させたり、日本初のバチスタ手術を行うなど、心臓外科の最先端を行く、最高峰の技術「神の手」を持つ心臓外科医として知られています。
須磨久善さんは、あの天皇陛下の心臓手術を担当した外科医・「ゴッドハンド」天野篤さんの「師匠」なのだそうです。
千葉県松戸市にある新東京病院に、1991年に新しく心臓血管外科が創設されたときの初代外科部長が須磨久善さんで、同時に入ってきたのが天野篤さんでした。
天野篤さんは須磨久善さんのもとでさらに修行を積み、須磨久善さんの後を継いで二代目の外科部長に就任します。
特に天野篤さんの時代は、心臓外科を学ぶなら新東京病院、とばかりに、数多くの若い心臓外科医が同病院で修行し、後に優れた心臓外科医として巣立って行ったのだそうです。
須磨久善さんには奥さんがいて、25歳のときに結婚したのだそうです。
子供についての情報は、特に出回っていないようです。
医療関係者ではないそうですが、須磨久善さんは、自分が困ったときには何でも相談するのだそうです。
須磨久善さんは、自分の築き上げてきたキャリアはすべて妻のおかげ、と言い切っています。
とても聡明で、須磨久善さんのことを理解している、素敵な奥さんなのでしょうね。
以上、須磨久善さんについてでした!
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]]>The post 服部匡志(眼科医)の高校大学経歴、家族や収入などwikiプロフィール。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>その服部匡志さんの高校大学など学歴や経歴、収入、家族といったwikiプロフィールについて調べてみました。
名前:服部匡志(はっとり・ただし)
出身地:大阪府
生年月日:1964年
学歴:大阪府立四條畷高等学校、京都府立医科大学医学部卒業
服部匡志さんは、高校時代は当初文系志望でしたが、父親を胃がんで亡くしたことから、医学部志望に転向します。
しかし、当時服部匡志さんはお世辞にも優秀な生徒とは言えず、医学部志望と伝えると進路指導の先生に「今の成績では無理だ」と言われます。
一方、「死ぬ気で2年くらい頑張れば何とかなる」とも言われ、本格的に医学部を目指した受験勉強を始めます。
しかし、模試では好成績を納めるものの、本番で失敗が続き、結局4年もの浪人生活の末、苦学して京都府立医科大学の医学部に進学します。
本当に医者になりたかったのでしょうね。
父親を見舞った時、主治医が看護師に向かって「もう長くないくせに、うるさい患者だ」と父親の陰口を言っているのを耳にし、大きなショックを受けました。
そして、「自分自身は絶対に良い医者になる」と心に誓ったのだそうです。
とは言え、当初はベトナムなどの海外に目が向いていたわけではなく、卒業後は京都府立医科大学眼科のレジデントから、大阪、京都、熊本、福岡、静岡と日本各地の眼科を転々とします。
転機となったのは2001年に、学会で知り合ったベトナム人医師に、ベトナムの眼病患者の治療と、眼科医の育成を懇願されたことでした。
翌2002年にベトナムに渡り、ハノイ国立眼科研究所、ホーチミン市立眼科病院、ハイフォン眼科センターなどで眼科医の養成に携わるほか、ベトナム各地の貧困層の眼病患者に対し、無償で手術を実施してきました。
その症例数は、現在までで数千を超えています。
ベトナムで医療援助を行う際に重要だったのは、服部匡志さん自身が手術を行うこともですが、それ以上に、ベトナムの眼科医療の水準を上げること、技術を持つベトナム人眼科医を育てることでした。
そして、ベトナムにおける医療現場の環境、そしてとりわけ意識を改革することでした。
服部匡志さんがベトナムに来るまでは、とてものんびりしたもので、社会主義国ということもあり、時間通りに休憩し、時間通りに帰っていく。
だから、時間外の患者は追い返すし、時間をオーバーしたら手術を中断して平気で帰り支度を始めてしまう、そんな状況だったそうです。
そんなベトナム人スタッフの意識を改革することの必要性を痛感した服部匡志さんは、「患者を自分の家族と思え」をモットーとします。
家族が患者だったら、お前たちはそんな対応はしないはずだ。
この言葉は、家族をとても大事にするベトナム人の心に響いたそうです。
そして、そう諭されたベトナム人スタッフたちは、時間はかかったものの、次第に意識が変わっていきました。
また、自分だけでは指導しきれないベトナム人医師を、研修に受け入れてもらうために、渋る日本の医療機関と交渉して説得するなど、医療そのもの以外の、政治力や人間力といったものが非常に重要になる仕事でした。
服部匡志さんの尽力もあり、現在のベトナムの医療環境は大幅に改善され、また高い技術と意識を持ったベトナム人医師も多く育っています。
服部匡志さんによると、ベトナムはまだまだ服部匡志さんの力を必要としているようですが、だいぶ独り立ちしてきたとのことで、他にタイ・ラオス・インドネシアなど、他の東南アジア諸国にもその活動の幅を広げています。
服部匡志さんの次なるターゲットはミャンマーで、東南アジア諸国全体を視野に入れているようです。
服部匡志さんの収入や家族については次のページで!
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]]>The post 長谷川勇太医師の高校大学学歴と神津島の診療所について。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>現在神津島の診療所の院長先生で、今度は娘の美遥ちゃんに診療所に白衣を届けてもらいます。
その長谷川勇太さんの高校大学など学歴、また神津島の診療所について興味があったので調べてみました。
長谷川勇太さんは、1991年、3歳10ヶ月のときに「はじめてのおつかい」に登場。
妹思いで面倒見のよかった勇太さんは、妹の萌さん(当時2歳8ヶ月)と一緒にはじめてのおつかいに出かけました。
そんな長谷川勇太さんですが、現在ではすっかり立派な大人になって、神津島の診療所の院長先生。
結婚もしていて、2児の父親にもなっていました。
2016年5月11日放映のはじめてのおつかいでは、今度は娘の美遥ちゃんが主役です。
3歳になったばかりの美遥ちゃんが、家から150メートル離れた診療所にいる長谷川勇太さんに、忘れ物の白衣を届けるというもの。
最初美遥ちゃんは、おつかいを頼まれた瞬間、泣いてしまいますが、迷ったあげくおつかいに出かけることを決意。みごと、勇太さんに白衣を届けます。
さて、この舞台となる場所は、伊豆諸島の一つ、神津島という離島です。
島全体が神津島村という村で、東京都に属しています。
面積は18.58平方キロメートル(東京ドーム約397個分)で、人口は1800人あまり。
石器の材料である黒曜石という鉱石を産出し、旧石器時代から縄文時代にかけて採掘されるなど、非常に古い歴史を持つ島です。
風光明媚な島としても知られ、漁業に加えて観光業が、島の主な産業になっています。
神津島には天上山という火山があり、多くのトレッキング客で賑わっていて、またスキューバや釣りなどでも人気を集めています。
こちらが神津島のイメージ動画です。
自然が豊かで、のんびりしていて、人々が笑顔で、神の島、という感じですよね。
ちなみに、神津島は、かつて神が集まる島として「神集島」と書かれていたそうです。
それが転訛して「神津島」となったのだそうですよ。
美遥ちゃんも、こういう環境で、おおらかな子に育つのでしょうね。
さて、その長谷川勇太さんですが、はじめてのおつかいに登場した後の経歴が気になります。
どうやらその後、毎年東大合格者数が100人を超えるという超名門校・開成高校を卒業し、自治医科大学へ進学したようです。
医師免許を取得して、自治医科大学を卒業した後、東京都立広尾病院の整形外科、東京都立墨東病院の救命救急センター勤務を経て、2015年から神津島の診療所長に着任します。
担当してきた診療科からも、救命や外傷が得意分野であるようですが、島で唯一の診療所ということもあり、幅広く様々な怪我や病気に対応しているようです。
自治医科大学は、栃木県にある私立の医科大学です。
ただし、普通の私立大学とは違い、各都道府県の共同出資により設立された医科大学で、地域医療・へき地医療のエキスパートを養成することを主旨とします。
卒業後は、基本的に9年間「出身地」の地域医療・へき地医療に携わることとされています。
学費は6年間で2200万円ほどですが、この9年間を地域医療・へき地医療で勤め上げれば、全額免除されます。
ところで、はじめてのおつかいでは、長谷川勇太さんは神奈川県川崎市に住んでいました。
なぜ「東京都」の神津島に着任しているのか?
実は、この「出身地」というのが、かつて「出身高校の所在地」と定義されていたため、長谷川勇太さんは「東京都出身」(開成高校は東京にある)とみなされたのですね。
ただ、このように出身高校の所在地と「本当の出身地」が異なる場合、まったく帰属意識や愛着のない地方に着任しなければならなくなる、という問題が生じます。
そのため、現在では「出身高校の所在地」以外にも、「本人の現住所」「保護者の現住所」を出身地とできる、と改正されています。
神津島の診療所ですが、正式名称を「神津島村国民健康保険直営診療所」といいます。
内科医と外科医と歯科医が1人ずつ、そして看護師が7人前後という態勢です。
有床の診療所で、ベッド数は6床ありますが、入院看護をしているわけではなく、長期入院の必要がある際には都内の病院へ搬送されるようです。
一般診療は午前中に行い、午後は健診や往診や予防接種など、様々な対応に当てているようです。
2人の医師と1人の歯科医師で1800人を対象にしなければならないというのは、大変ですよね。
神津島の特徴としては、内地(本土のこと)に行きたがらない患者さん、最期を在宅で迎えたい患者さんが多いことだそうです。
離島だと、やはり高齢者率が高いからでしょうか。
そのため、午後は特に往診に割き、在宅医療を充実させる仕組みになっているのだそうです。
多い時には1日50人以上の患者さんに対応するときもあるそうです。
離島の診療所というと、のんびりしたイメージがありますが、1800人のうちの誰かがいつ容態が悪くなるかもしれず、しかもそれに1人で対処しなければならないので、実際には24時間態勢で大変のようですね。
以上、25年前のはじめてのおつかいに出かけた妹思いの長谷川勇太さんは、今では立派なお医者様になっていました、というお話でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
はじめてのおつかいのじゅりあちゃんの好きだった「ばいばい」についてはこちら
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]]>The post 新田國夫(ニッタクニオ)医師の病院/経歴。高齢者障害者の在宅ケア。 first appeared on My Favorite Topics.
]]>東日本大震災や熊本地震などの被災地における高齢者や障害者の在宅ケア・在宅医療で注目されていますが、この分野では四半世紀前から先駆者として第一線を走り続けています。
そんな新田國夫さんの病院や経歴や著作などについて調べてみました。
名前:新田國夫(にった・くにお)
出身地:岐阜県
生年月日:1944年
学歴:1967年早稲田大学第一商学部卒業、1979年帝京大学医学部卒業
新田國夫さんは、1944年岐阜県生まれ。
早稲田大学第一商学部を卒業しますが、その後、帝京大学医学部に入学。卒業後は帝京大学医学部附属病院第一外科に入局します。
新行徳病院外科部長をへて、1990年、東京都国立市に医療法人社団つくし会新田クリニックを開院します。
さらに、1998年に通所リハビリテーション施設である、ふれあい倶楽部を、2000年に居宅支援事業所を相次いで開所します。
その後も現在に至るまで、本業の高齢者地域医療に尽力するかたわら、全国在宅療養支援診療所連絡会会長、NPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク理事、国立市医師会会長、北多摩医師会副会長、明治大学兼任講師など、様々な役職を兼任し、超多忙な日々を送っています。
また、
「家で死ぬための医療とケア―在宅看取り学の実践」(医歯薬出版)
「口から食べる”を支える―在宅でみる摂食・嚥下障害、口腔ケア」(南山堂)
「安心して自宅で死ぬための5つの準備」(主婦の友社)
「食べることの意味を問い直す―物語としての摂食・嚥下」(クリエイツかもがわ)
など、著書も数多く著しています。
名称:医療法人社団つくし会新田クリニック
所在地:東京都国立市西2-26-29
診療時間:
平日(月~金)9:00~18:00
土曜日 9:00~13:00
日曜日 9:00~12:00(第3・第5日曜日休診)
訪問診療/月曜日~金曜日、その他随時
アクセス:JR南武線「矢川駅」より車で約3分(約800m)、JR中央本線「国立駅」より車で約5分(約1500m)
新田國夫さんは1944年生まれで、一度早稲田大学の第一商学部を卒業なさっています。
その後、医師の道を志すようになり、帝京大学医学部に入学。外科医としてキャリアをスタートさせます。
しかし、やがて来る高齢者社会にも関わらず高齢者ケアの不備を目の当たりにした新田國夫さんは、高齢者の在宅医療の道を模索します。
そして、ついに1990年、東京都国立市に新田クリニックを開院します。
今でこそ高齢者の在宅ケアは浸透しつつありますが、当時の医療界は「病気は病院で治すのが常識」という空気でした。
訪問診療という発想は、同業者にはなかなか理解されなかったようです。
しかし、新田國夫さんと、その志を同じくする仲間の医師たちの尽力もあり、次第に定着していきます。
1992年にはついに訪問看護に診療報酬が認められ、1994年には24時間体制の往診の診療報酬が格段に向上し、2000年に介護保険制度が施行されるなど、高齢者の在宅ケアの環境は確実に良くなってきています。
新田國夫さんはその先駆者的な存在とも言える方です。
そう考えると、すごい人ですよね。
新田國夫さんのクリニックでは、在宅での高齢者の看取り率は実に90%くらいなのだだそうです。
これはすごいことです。
と言うのも、新田國夫さんの診療を受ける高齢者のほとんどは、延命治療で長く生きるよりも、家族に看取られながら家で最期を迎える、という選択肢を取っていることになるからです。
在宅医療では、医療者側の態勢もそうですが、それと同じくらいに患者や患者家族の意識も重要になってきますからね。
時代の流れ、ということでしょうが、その流れを作るのに大きな貢献をしたのが、この新田國夫さんです。
そう考えると、本当に頭が下がる思いです。
ちなみに、90%の看取り率というのは、新田國夫さんのクリニック全体の平均で、「末期がん」患者の高齢者に限れば、ほぼ100%の在宅看取り率になるようです。
認知症の場合はそれよりも下がるようですが、それでも、独居であっても看取りは可能なのだそうです。
自費でヘルパーさんを雇ってもらって、24時間いつでも看取れるように態勢を整えるというのです。
もちろんお金は掛かるのですが、新田國夫さんが患者の家族や後見人と相談して、予算と費用を天秤に掛けながら、最善のケアを提供しているのだとか。
その結果、訪問介護だけでなく、ケアマネージャーやデイサービス等を組み合わせて、認知症や独居の患者の看取りも万全を期しています。
ここまでするものなんですね(驚
国立市近辺の高齢者やその家族にとっては、本当に心強い限りですよね。
新田國夫さんのような高い志を持った医師が、全国の地域にもっと増えてくれるといいですよね。
介護は地域社会でするもの、という意識は年々高まってきていますので、きっとその流れは実現するのだと思います。
その流れに医療者の側から先鞭をつけた先駆者であり、現在も第一線で活躍する新田國夫さん。
知れば知るほど頭が上がりません汗
以上、新田國夫さんについてでした。
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