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川中美幸さんの母親・久子さん

川中美幸さんにとって、母親の久子さんはとても大きな存在のようですね。

川中美幸さんは鳥取県の乾物屋の娘として生まれましたが、2歳の時に父親が店を売り払って、一家で母親の出身地である大阪へ移住。

大阪で新たに商売を始める矢先、父親が人身事故を起こし、莫大な借金を抱え、一家は極貧生活を送ることになったのだそうです。

父親は事故後、酒に溺れて体を壊し、代わりに一家の大黒柱となったのが母親の久子さんでした。

久子さんは、一家を養うため、そして被害者遺族に賠償金を払うため、身を粉にして働き続けました。

また、デビュー後の下積み時代の川中美幸さんに、ずっと手紙を添えてお金を送り続けていたといいます。

川中美幸さんは1973年、17歳で「春日はるみ」としてデビューしたものの、鳴かず飛ばずでいったん大阪に帰ります。

そんなとき、諦めたらダメと励ましてくれたのが久子さんでした。

その言葉に背中を押され、1977年に「川中美幸」として再デビューし、1980年に『ふたり酒』が大ヒット。

川中美幸さんは両親のために「ふたり酒御殿」とも言える立派な家を建てますが、その陰にも久子さんの存在があったといいます。

『ふたり酒』の歌詞は、男の立場から妻への思いを歌うという内容で、当時24歳の独身女性である川中美幸さんには違和感があったのだそうです。

しかし、久子さんに歌詞を読ませたところ、久子さんは「いい詞やな」とコメント。その言葉を聞いて、「等身大で歌わなくてもよい。代弁者になること」を悟ったのだそうです。

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川中美幸さんの母・久子さんの介護

久子さんはとても働き者で、娘の川中美幸さんが成功者となった後も、お好み焼き店「かわなか」を切り盛りし、90歳手前まで店に顔を出していたといいます。

しかし、88歳の時に心筋梗塞で倒れ、手術により回復するも、歩行や入浴、トイレなどの介助が必要な状態になります。

娘の川中美幸さんが仕事をセーブしながら、久子さんと同居し、介護に努めることになりますが、久子さんは2017年10月、胃がんにより逝去。92歳でした。

介護生活に入った川中美幸さんは、子供の時にあまり一緒に居られなかったことから、久子さんとの時間を大切にしたいと考えていたようです。

ある時、「仕事を辞めようか?」と提案したことがあったそうですが、久子さんは即座に、「アカン。仕事は命や」と答えたのだそうです。

久子さんの生き様が凝縮されている一言ですね。川中美幸さんが家にいない間は1人で大変だったでしょうに、常に自分のことよりも娘のことを気にかけていたのですね。

告別式で川中美幸さんは、

「素晴しい母でした。母のためにも、いい歌を歌っていきたい」

と誓いの言葉を述べています。久子さんはその大きな精神的支柱として、いつまでも川中美幸さんの心に生き続けるのでしょうね。

以上、川中美幸さんについてでした。最後までお読み頂きありがとうございました。