数々の名作で知られる脚本家・橋田壽賀子さん。終活や安楽死のことが話題です。

その橋田壽賀子さんの若い頃や今現在、結婚や夫、子供、熱海の自宅、大学や経歴などwikiプロフィールについて調べてみました。

橋田壽賀子さんのプロフィール

名前:橋田壽賀子(はしだ すがこ)
本名:岩崎壽賀子(いわさき すがこ)旧姓橋田
出身地:大阪府堺市西区(旧京城府生まれ)
生年月日:1925年5月10日
年齢:92歳(執筆時)
血液型:B型
学歴:日本女子大学国文科卒業、早稲田大学第二文学部演劇専修中退
現職:脚本家、劇作家

橋田壽賀子さんは1925年、日本統治時代の朝鮮・京城府(現:韓国ソウル)に生まれます。

9年間を朝鮮で過した後に帰国し、日本女子大学文学部国文科へ進学。

同大学卒業後、早稲田大学第二文学部演劇専修に入学し、学生劇団に所属し役者を務め、また脚本塾に通い演劇の創作を始めます。

早稲田大学在学中に松竹の脚本部の採用試験を受け、合格。

1949年に大学を中退して松竹初の女性社員となりました。

1950年の映画『長崎の鐘』で、脚本を担当した新藤兼人さんの補助を務めたのが最初の仕事でした。

1952年に、映画『郷愁』(主演:岸恵子さん)で初めて単独で脚本を担当します。

1959年に松竹を退社し、フリーに。ただ、最初の数年間はテレビでの仕事が得られず、小説や漫画の原作者として活動します。

1964年に『袋を渡せば』で脚本家としてデビューを果たし、同年の東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』で脚光を浴びるようになります。

以後、『時間ですよ』『おしん』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』など、数々の名作を世に送り出します。

『おしん』(1983-84)の頃の橋田壽賀子さん

2015年には、その多年の功績が認められ、脚本家として初めて文化功労者に選出されました。

また、近年も2013年~14年の『なるようになるさ。』や『渡る世間は鬼ばかり』「2015年、2016年スペシャル前編・後編」などのドラマを担当。

ほかに、2015年にはエッセイ『旅といっしょに生きてきた 人生を楽しむヒント』を執筆。

さらに同年のTBSのバラエティ番組『ピン子・壽賀子の美しく青きドナウ川世界遺産の旅』に出演するなど、90代を迎えた現在も現役の脚本家として、またタレントとして精力的に活動を続けています。

橋田壽賀子さんの結婚、夫、子供

橋田壽賀子さんは1966年5月10日、自身の41歳の誕生日に、当時TBSプロデューサーだった4歳年下の岩崎嘉一さんと結婚しています。

橋田壽賀子さんと岩崎嘉一さんの間には子供はいらっしゃらないとのことです。

1964年から放送されたTBSドラマ『ただいま11人』の脚本を橋田壽賀子さんが担当したことがきっかけで、2人は知り合いました。

アプローチをかけたのは、橋田壽賀子さんの方からだったのだそうです。

当時の橋田壽賀子さんは、フリーの脚本家としてようやく仕事が回ってくるようになった時期でした。

そのため、脚本家として食べていけるかどうか不安で、安定した高給取りの男性と結婚したかったという「不純な動機」があった、と振り返っています。

岩崎嘉一さんは、非常に亭主関白な夫だったそうで、結婚したら脚本の仕事を辞めるように言われていました。

実際、橋田壽賀子さんは結婚後、脚本の仕事を離れ、家庭のことに専念し、夫に尽くします。

後年、夫の許可を得て、脚本家として復帰しますが、そのときにも「俺の前で原稿を書くな」と言われ、その言いつけを律儀に守り続けたといいます。

周囲からは「よく我慢できるね」と呆れられるほどだったそうですが、橋田壽賀子さん自身は、岩崎嘉一さんのことをとても慕っており、納得した上でのことだったそうです。

岩崎嘉一さんは1989年に、肺がんのため60歳の若さで亡くなりますが、『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』などの傑作を生み出した「脚本家・橋田壽賀子」は、夫との結婚生活なしには生まれなかった、と今でもとても感謝しているようです。

なお、岩崎嘉一さんの死後、橋田壽賀子さんはその遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立し、「橋田賞」を創設しています。

橋田壽賀子さんは、晩年の岩崎嘉一さんとは静岡県熱海の別荘地である「熱海自然郷」で共に暮らし、現在も熱海在住とのことです。

自宅は標高約800メートルの玄岳の頂上付近にあり、自然が豊かで、海を一望できる非常に景色のよい立地にあるのだそうです。

夫の亡き後、柴犬の「さくら」と一緒の生活でしたが、2016年に亡くなっています。

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